コザの民謡創成期をビセカツさんに聞きました。

備瀬さん

備瀬さんのキャンパスレコード店内は現行のCDは勿論ですが、沖縄民謡や、民謡界の大御所達の写真がズラリ。ちょっとした民謡博物館です。民謡好きならずとも沖縄市に寄る際には是非足を踏み入れて欲しい。

——ビセカツさんは、民謡もロックもフォークもポップスも、戦後の沖縄音楽のミュージシャンとの交流が多いですが、今日は特に沖縄民謡が戦後、どのようにして確立していったのか? そんな話を伺えたらと思っています。よろしくお願いします。

戦後の沖縄が復興を目指すのに、芸能っていうのはとっても役立ったよ。沖縄の人たちを元気づけるのには芸能がいちばんだと敗戦直後の指導者たちは考えたんだろうね。まずは1945年の9月には屋嘉にあった捕虜収容所で唄作りが始まって、その3か月あとには石川で芸能大会があったり。物がない時代に使えそうな物をなんとか工夫してカンカラー三線作ったり、知恵の限りを尽くして沖縄伝統芸能の復興に取り組んだっていうよ。

——戦後の復興は芸能でスタートしたんですか!??

そう。なかでも戦後の民謡はコザから始まってる。なんでコザが戦後の民謡の発祥地かというと、これは終戦直後、仕事はいわゆる軍作業しかなかったの。そのころの沖縄市はほとんど基地だったのわかる? 中の町や役所のある仲宗根町、今の一番街もねえ、みんな昔は基地さ。それまでは畑とかで、誰も住んでいなかったようなところに人が集まったの。仕事は軍作業だから(基地の周りの)コザに集まってきた。そのなかには南洋から引き上げてきた小浜守栄さんっていう、この人は嘉手苅林昌さんの兄貴分で嘉手苅さんが慕ってた人なんだけど、この小浜守栄も園田に来ていた。それから、山内昌徳さんっていう百年に一人の美声と言われた唄者も読谷の土地が接収されたのでこっちに来ていた。もちろん小浜守栄も土地を軍に取られてるもんだから、仕事の関係もあるし、みんなこっちに来たわけね。それで、終戦直後いちばんいい仕事っていったら何かわかる? もう最高のあこがれの職業よ。自動車の運転手。

——それは米軍の荷物の運搬をするんですか?

そう、トラック運転のライセンスを持っている人は少なく、戦果をあげるのに最高の職業だから、登川誠仁に訊いた話によると、釘が戦果物で一番重宝されたそうです。大日本帝国は戦争に負けたけど、沖縄は戦果(いわば軍事資材窃盗なのだが)で米軍に勝ったと登川誠仁は言っていた(笑)

——みんながたくましく生き抜いていた時代ですよね?

で、次に人気の仕事はPX(スーパー)や炊事。炊事っていうのは兵の食事をまかなう仕事。それで、残飯を持って帰るのは自由だったから、油紙に包んでウィスキーとかいろんなものを残飯が入ったドラムカンの中に入れて持ち帰ってた。MP(米軍の憲兵)も検査しようにも残飯の中に手を突っ込んでまでは見ないわけよ。だから人気で、小浜守栄は炊事やって、山内昌徳はPX勤務をしていた。

——あ、人が集まるから唄者も集まってたんですね?

うん。それで、小浜守栄と山内昌徳の家が園田で近かったもんだからよく山内昌徳の家にいたわけ。だから、嘉手苅林昌はそこへ来れば酒とごちそうにありつけるっていうのもあってよく来てたらしい。喜納昌栄もその近くで軍のカーペンター(大工)してたし、登川誠仁なんかもよく来てたらしいよ。そういうわけで、当時まだ周りは食べるものにも困っていた時代に山内昌徳や小浜守栄の家に行けば酒も食べるものもあるということでコザの唄者がみんな集まってきてた。仕事もある、食べ物もあるので、後に有名になる沖縄民謡界を支えてきた人たちがみんなコザに集まってたから戦後の民謡はここから広がっていった。

——スゴい。当時の山内昌徳さんと小浜守栄さんの家は沖縄民謡界のメッカですね(笑)。へぇー、過酷な環境のなかで偶然にもたくさんの才能が一箇所に集まったのがコザだったんですね。

そう。ここがすべての始まりで、次に民謡酒場がたくさんできたりジュークボックスが流行ったり、ラジオの普及というのに乗ってどんどん民謡が広がって第一期民謡全盛時代というのに繋がっていったわけ。

——とってもリアルな話でおもしろかったです。ビセカツさんはその後の沖縄フォークブームについても生き字引のような方ですし、またそのあたりの話も聞かせてほしいですね。今日はありがとうございました。


※出典:コザソース vol.37(2010年2月発行)

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